常にポジティブに”変わりたい”と考えることが、原動力になる。教員・アナウンサー・留学・マイナビへの出戻りを経験して、今感じること。
育児・スポーツ・音楽・ダンス・推し活など…
働き方の多様化が進むいま、仕事と別の活動を両立して、自分のライフスタイルを確立している人も多いと思います。
連載企画『わたしの「#もうひとつのかお」』では、仕事以外の「かお」を持つマイナビ社員に、その活動にかける想いや、両立法について聞いていきます。
読者の皆さんにとって、ご自身のワークスタイルを考える“ヒント”になれば嬉しいです。
第7回は、教員として働いたのちマイナビへ中途入社。その後マイナビを一度離れ留学。フリーアナウンサーを経て再度マイナビに入社し、現在は広告宣伝部で活躍する山口和美さんにインタビューしました。様々な挑戦をされてきたなかで、これまでの選択を「全く後悔していません。」と話す山口さんのキャリアに対する想いとは?
―常に挑戦していたい。教員からマイナビへの転職と、アナウンサーへの夢。
お恥ずかしながら、幼いころからずっとテレビに出る人になりたいと思っていました。それが成長するにつれて徐々に明確になり、アナウンサーになるという夢を持つようになりました。
ですが、当時は就職氷河期。受験できるテレビ局が少なく、アナウンサーになるのは狭き門でした。最終面接には何度か進みましたが決まらず、大学で取得した教員免許を活かして国語科の教員として働きながら、アナウンサーの受験を継続していました。
就職した学校は高校男子サッカー部の強豪校で、私はそこで高校女子サッカー部の立ち上げを任せてもらいました。中学生と高校生の授業を担当し、部活と授業の予習で忙しい毎日でしたが、生徒たちは素直で目がきらきらしていて、何でも吸収してくれるスポンジのようでした。私が伝えたことをすぐに実践してくれて、めきめきと力を付けてくれるのが、教員をしていてとてもやりがいに感じました。
そんな充実した日々を送っていましたが、まだアナウンサーとしての夢も諦めていなかったので、生徒たちに対しても中途半端な気持ちで教員をやっていては申し訳ないなと思っていました。
アナウンサー受験の面接は土日に入るのですが、部活動の練習も土日だったため、書類選考が通ってもなかなか面接が受けられませんでした。アナウンサーは今しか挑戦できないから、土日休みの仕事につかなくてはと思い、2006年、まだマイナビが「毎日コミュニケーションズ」だった頃に転職しました。
最初の配属は、就職情報事業部のナビサイト『毎日就職ナビ(現:マイナビ20XX)』のサポート課でした。マイナビが提供している新卒向けの就職情報サイトを使ってくれている企業に対し、サイトの操作説明をするために、全国へ出張していました。そのなかで、自分のお客様がいる営業の姿がすごくキラキラして見えて、”私も営業をやりたい…”と考えるようになり、営業職への異動を希望しました。そこからは3年間強、就職情報事業部の営業として働きました。
―目標を実現するためマイナビを離れアメリカへ留学。帰国後ついにアナウンサーに。
就職情報事業部での経験を通して、日本の労働人口や労働市場を知り、2010年だった当時、10年後の2020年に日本は外国人労働者に頼らざるを得ない日が来ることを知りました。その為には、日本人の海外留学生を事前に採用しておいたほうがいい事を知り、お取引先にもこの話をしていました。英語や海外の文化を理解していれば、日本と海外との橋渡しができる存在になれる、自分もそんな必要とされる人材になりたいと考え、思い切って退職して語学の勉強をしようと決めました。
日本で学ぶという選択肢もありましたが、行ってしまった方が早いと思い、1年2カ月ほどアメリカ(ニューヨーク、サンディエゴ)に留学しました。
帰国後はずっと夢であったフリーアナウンサーとして事務所に所属し、そこからオーディションを受けたり、お仕事をいただいたりして活動していました。
当時の同僚を通じて、マイナビのイベントの司会やWEB動画のMCをさせてもらったりもしました。そこでマイナビの人たちとまた一緒に仕事をして、皆のあたたかさを感じました。”私がいた会社はやっぱりいい会社だったんだなあ…”と感じて、もう一度中途採用を受けてマイナビに再入社することにしました。
―出戻り後、営業から一転。マイナビでの新たな挑戦。
最初は元々いた就職情報事業部の営業に戻りましたが、メディアのお仕事には興味があったので、営業をしながら異動希望を出していました。そんなときにちょうど広報部にひとり空きが出て、異動することができました。
当時はメンバーも少なく今所属している広告宣伝部はまだなかったので、会社のインナーブランディングや取材対応などの広報の仕事をしながら、協賛の案件やイベントの運営、CMやオフライン広告の出稿管理などの広告宣伝の業務も全てやらせてもらっていました。
2018年に広告宣伝部ができてからはそちらに異動して、宣伝の仕事に集中するようになりました。
広告宣伝部の仕事では、マイナビのブランディングに携われていることに、とてもやりがいを感じています。ユーザーやお取引先にマイナビを認知、信頼してもらい、マイナビのサービスを使ってもらえるように広告宣伝活動を行っています。
”これは絶対に会社のためになる”と信じて取り組んだことが、最終的に役員や同僚、各事業部の方たちから「あのイベントすごく盛り上がってたね!」「テレビで協賛のイベントみたよ!」と言ってもらえ、きちんと数字でも広告成果が出たときは喜びを感じますね。
最近では協賛のイベントで小学生向けの体験会を行ったりするのですが、子どもたちが親御さんへすごく楽しそうに体験した事を話しているのを見ると嬉しくなります。
当社は小学生向けのサービスがないため、今すぐにマイナビのサービスに触れることがなくても、いつかその子どもたちが大きくなったときに「あれってマイナビがやってたんだ!」と気がついて、ポジティブなイメージを持ってもらえたらいいなと思います。
また、マイナビがWEリーグ『マイナビ仙台レディース』のチームを持つ事になり、会社でプロジェクトメンバーに選ばれました。チームの立ち上げに携わらせてもらい、ロゴやエンブレム、キャラクターなどを作成する際にメイン担当を務めさせてもらいましたが、とてもやりがいが大きかったです。今後長くファンの皆さんに愛されるロゴやエンブレムを作らなければと責任重大でしたが、とても良い経験をさせて頂きました。
―常にポジティブに”変わりたい”と考えることが、原動力になる。
私は昔から、“なんでも若いうちから早くやらないと、すぐに人生が終わってしまう!”と生き急いでいたのだと思います(笑)
なんでも“いま挑戦しなかったら絶対後悔する”と思っていて、色々な経験をしつつ “これで良いのかな”とか、“今の自分はもっとこうあるべきかもしれない”って、すごくポジティブな意味で「変わりたい!」と常に考えています。
そうやっていつも生きてきたので、教員としての経験も、最初の転職先にマイナビを選んだことも、アナウンサーを経験してまた戻ってきたことも、全く後悔していません。フリーアナウンサーを経験していなかったら、マイナビに戻っていなかったかもしれないですしね。
フリーアナウンサー時代にマイナビの人からお仕事をいただいたり、広告宣伝部の協賛イベントで教員時代に女子サッカー部で関わった人と仕事をしたり、過去の経験が繋がって、今の仕事で役立っている面も多々あります。
将来的には、留学経験を活かしてグローバルに活躍できる部署で働きたいと思っています。
英語を話せるのは誰でも出来て当たり前の時代になってきました。そのうえで今は+αで何ができるかが求められていると思います。今後は今までの経験を活かし、伸びそうな産業やアイデアを扱っている会社を見つけ投資をするような仕事にも興味があるので、いずれ挑戦してみたいです。